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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 大阪の隠れキリシタン Ⅳ



今日は高山右近の列福式。張り切って着物着ちゃいますよ。お祝いする気持ちを込めて、日本の伝統衣装を身に着けるのも良いかと思い。
右近の目にも留まるといいな、などと半分くらい妄想入っていますが (^▽^;) 行って来ます!



待ち合わせして


大阪城ホールに近い駅でSさんと待ち合わせをして、長丁場なので胃に何か入れておこうということで、カフェでティータイム。

さてここで残念すぎるご報告が!この日持って行ったカメラの不具合で、スマホで撮ったこれ(⇒)以外、本日は写真が一切ございません (´;ω;`)ナミダドバー

列福式の写真も、途中でSさんがスマホで撮ったものが1枚あるだけ。幸い新聞等のメディアで取り上げた関係で、多くの写真や映像を目にすることはできるのですが、私のマニアックな観点で撮った写真が皆無というのは、ほんとに泣くに泣けない悲話です。ああ…「確認!」とは金言なり。



入場券と座席表


という訳で、後から撮った写真で進めていくとしましょう(涙止まらんが)。

こちらが予め送られてきていた入場券と座席表。ウェブ受付がスタートした瞬間にアクセスして申請したところ、予約番号は8。

座席はエリアごとになっているので座席番号まではありませんが、「あ-D」というのは、関係者席の真後ろ。幸先は…良かったんですけどねぇ (>_<)


ミサ式次第


こちらが入口でもらったミサの式次第とカード、記念バッジ。 右近の肖像画はこれに決まったんですね。異議なし。

ハンサムに描き過ぎてないところが良いです。骨格も昔の人風で。美化した肖像画でファンタジー化してしまうのが一番危っかしいですから。

会場には1万人が集まり、アリーナ席までびっしり。外国人も多いですね。式に先立ち高山右近の生涯を紹介する40分ほどの映像が流れ、それだけでも結構見応えありました。巨大プロジェクターが威力を発揮して。

そもそもこれほど大きなキリスト教のイベントが、ここで行われたことがあったでしょうか?もしかしたら…、いやきっと、これくらい大規模な行事はなかったのではないでしょうかね。かつて大坂城があった所で列福式をするというのは、実はすごーく歴史的なことなのかも。

なんせ最初の大坂城を築いた秀吉は伴天連追放令を出し、それを破却してちょっとずらした場所にまた城を築いた家康は禁教令を出してキリシタンを完全にDeleteしようとしたのですから。その大坂城跡のホールで、今日は一人のキリシタンの信仰を称える列福式ですよ。歴史をひっくり返すようなことですよね。



アマート枢機卿


時間になると、お揃いのマントを着た司祭団が入場してそこだけ席が真っ赤っかに。着席するや否やスマホを取り出し会場を撮影していました。SNSにアップするのかな。時代ですねぇ。

あのマントは一着3~4万円もするんだと、周りから声が(真偽不明)。お金のかかり方に疑問を持つ人もいるみたいですが、こういう場合は良いような気がします。こんな大きな行事は、たぶん神様が許諾を与えて行うようにして下さっているんでしょうから。

教皇代理のアマート枢機卿が背後の出入口から入場すると、会場は一気にヒートアップ。ふわーと高揚した雰囲気になりました。強力なスポットライトに照らされて枢機卿が入堂。天使のように見えちゃいます。柔和な笑顔ですね☆



教皇書簡


いよいよ式が始まり、入祭の歌やキリエなど…、ラテン語満載。この日に備えてカトリック教会では練習をしていると聞いていましたが、こういうことだったんですね。

列福の請願を共同司式の岡田大司教(最近Facebookで友達になってくれた)がすると、右近の略歴が再び紹介され、それに応える形で教皇書簡が読み上げられました。

読み終えた枢機卿が岡田大司教をハグ。会場から温かい拍手が送られ、私も涙。400年前に国外追放になったキリシタンが今、列福され世界から拍手を受けているんですよ。泣けばいいじゃん、泣けば!(自分に言っている)

天井から肖像画がずずいと現れ、これで見事高山右近は福者の列に上げられたということだ!…ん?で、これで終了? ほっこりしておりましたが、式次第はどうなっているんだと慌ててページをくくりました。するとここから延々賛辞や賛歌が続くそうな。ほう、列福式って、こういうものなんですねぇ。




列福の請願

教皇書簡の朗読

謝辞

奉納祈願など

列福式


ではご覧下さい!こちらがSさんが撮った列福式の唯一の写真。

私は思いましたよ。これは神様のリベンジマッチだなと。

400年前に迫害されたキリシタンを、敢えてこの大坂城跡で列福することで、神様は信仰の勝利を宣布したのだと。朽ちないものを最後まで信じた人を、世界各地の司教30人、司祭約300人、聖歌隊900人、参列者1万人のミサで称え、証しているのだと。来て良かったなと思った瞬間でした。



韓国語の聖歌


式には来賓として高山右近の子孫(残念ながらクリスチャンではないと、これまた周りの声で聞きました)や右近ゆかりの地の代表者も来ていて、賛辞のスピーチも様々な言語で送られていました。

閉祭の前にはなぜかベトナム語と韓国語の聖歌も。右近が追放されたフィリピンでもなく、なぜベトナム&韓国?

しかし昨日「400年前に蒔かれた種がどんな実を結んでいるのか?」と考えていたことは、一定の答えに達しました。直接の子孫とかでなく、種は実を結んでは広がって、今や民族を超え、世界の果てにまで及んでいると。ローマを見ずして死去した右近が、恐らく知らなかったであろう国々から賛辞を寄せられていることを見て、それが感じられました。


右近のチョッキはバチカンへ


閉祭の言葉が述べられると、聖歌の流れる中、枢機卿や司式者が退堂していくのですが、右近のチョッキも掲げられて退場していきました。数年前に高槻の資料館で見たけれど、もう近くで見ることはないかもしれません。聖遺物とされた右近のチョッキは1年間教皇執務室に置かれた後、バチカン美術館に収蔵されるのです。

やっぱり、出来ることなら何でも見られるうちに見ておくのが良いですね。右近がスペイン人宣教師からもらったとされる黄色のチョッキには金糸で洋傘が刺繍され、金色のボタンが付いていました。私にはよく見えなかったけれど、ボタンには古いスペイン語で「喜び」を表す言葉が書かれているのだとか。

「喜び」――。この世の物はすべて捨てて信仰の道を選んだ者が、こんなボタンを付けていたなんて、何とも素敵ではありませんか☆彡



右近のチョッキ

列福式の記事


 帰りに寄り道を☆


伊丹空港


列福式の翌日、遅起きした私はぼーとしたまま空港へ。興奮冷めやらずと言いますか、なんやかんやありまして☆

せっかく伊丹から帰るんだからと、チェックインカウンターで荷物を預けてからバス停へ。へへへ、JR伊丹駅にある有岡城跡に寄りたいのです(^^♪


有岡城跡


JR伊丹駅に着くと、もう目の前は有岡城跡。徒歩1分で本丸なので、駅も当時は完全に城内。

「史跡 有岡城跡」と書かれた碑の周りを囲む石垣は、昭和になって積まれたもの。枡形虎口風になっているのもイマジネーションの産物です。

惜しむらくはこの城、私が乗ってきた鉄道や都市開発で、何の発掘調査もされぬままぶった切られ、現在の姿に成り下がったのです。

実にがっかりな有岡城ですが、来たかったのには訳があります。それは右近ゆかりの城だから!(´∀`*)ポッ
私が思うに、右近の人生には大きく三回の苦悩期があったのですが、その一つがこの城に大きく関係しています。

右近は荒木村重という主君に仕えながら、高槻城主として頑張っていたのですが、村重の居城がここ有岡城でした。有岡城は日本最古の総構え(町ごと要塞化する城郭構造)の城とされ、長期の籠城にも持ちこたえた堅固な城でした。1582(天正5)年にこの城を訪れた宣教師ルイス・フロイスは「壮麗な城」と述べています。


荒木村重の謀反と高山右近の苦悩


右近が20代半ばの青年城主だった1578年10月、思わぬバッドニュースが耳に飛び込んできました。村重が信長に謀反を起こすとの話です。それを聞いた右近は、そんな無謀なことは止めよと村重を説得に行き、自分の忠誠を誓うために自身の息子と妹を人質として差し出しました。

しかしそんな真正直なことをしたら大変な事態に陥ってしまうのが戦国の世。右近は半年後、そのことによって窮地に陥りました。反旗を翻した村重を討つため、信長はまず先に、右近のいる高槻城を取り囲んだのです。信長の陣には百戦錬磨の錚々たる武将たち。

信長は右近の弱点を突いてきました。右近が信頼する宣教師オルガティーノを高槻城内に送り、信長に下るよう説得させたのです。その時右近の悩みに拍車をかけたのが、父ダリオとの意見の相違でした。ダリオは武士ならば村重につくべきだと主張し、城を信長に渡すなら自分は切腹すると言う始末。

実際右近の息子と妹も村重の所にいるのですから、そう出来るならばそうしたかったでしょうが、信長に歯向かって勝ち目がないことは明白でした。悩み、血のにじむような祈りをしていると、短気な信長は更に追い打ちをかけるようなことを申し送ってきました。

「ただちに開城しなければ、すべてのパードレ(宣教師)を城の前で磔に処す。高槻のキリシタンを皆殺しにし、教会を破壊する」と。どうする右近……。



有岡城跡

有岡城跡

石垣と井戸


本丸跡には建物の礎石と石垣、井戸が残っています。

有岡城は城の中を石垣で区切っていたのですが、内側を石垣にし、外側を土塁にしていました。

普通逆だと思うんですが、村重に考えがあったんでしょうね。総構えのアイデア自体、斬新なものだったと思います。もう少し後の世に大大名なら造ってますが、村重はそこまでのクラスではないですし。

本丸跡に残る石垣の石は本物ですが、近年壊して積み直したようで、積み方が素人目にも変です。まるで工事現場の仮置き…。せめて城郭研究家に相談することはできなかったのかと、伊丹市に訴えたいですね。今からでも予算を組んで専門家を呼んで意見を聞けば、少しは改善できると思うんですが。

…話を戻し、ここ本丸跡ですから、この場に来ていたはずですね、右近も。説得しに。村重の謀反を翻意させようと、この城に説得に来たのは右近だけではありませんでした。もう一人、大事なキリシタン大名(その頃はキリシタンでも大名でもなかったけれど)が来ていたんですね。後で言おうと思っていますが (ΦωΦ)フフフ…



荒木村重について

有岡城跡

本丸跡

荒木村重夫妻の歌碑

土塁跡

井戸

懐古園

石垣の遺構

建物の礎石


さて悩み抜いた右近が結局選んだ道は、信長へ自ら投降することでした。束髪を切り落とし、紙子(かみこ。紙でできた粗末な衣服)一枚となって、夜中に一人徒歩で信長の陣に参上したのです。

それは信長に降伏して城を明け渡すことを意味していました。喜んだ信長は着ていた小袖を右近に贈り、領地を倍増して高槻城主とすると言い渡しました。

朝になって右近が信長に降ったと知ったダリオは激怒。老身だが自分だけでも味方すると村重の所に向かいました。…ってことは、ダリオはこの城に立て籠った訳ですね。今気付きました。

では結論へと急ぎましょう。荒木村重はこの城に9か月籠城した後、密かに自分だけ脱出。1か月後に城は落ち、信長は家臣数百名を尼崎城近くで処刑。村重の妻「たし」ら一族36名を京の六条河原で斬首しました。卑怯者の村重だけが生き残って、後に秀吉の御伽衆の一人となったとか。…酷い話です。

いくら戦国と言っても、ここまで胸がムカムカするような酷い話、聞いたことありません。絶世の美女だったという「たし」は、一説にはキリシタンだったとも。本丸跡には村重と「たし」が歌い交わした歌の碑がひっそりと建てられています。

しかし互いの歌の内容があまりにも食い違っていて、「なんだこれ?」と首を傾げてしまうほど。共通しているのは漠とした感じだけです。「たし」の歌からもキリシタンぽさは漂ってこないですねぇ。。




黒田官兵衛幽閉地?


村重の説得のため、この城に来たもう一人の人物は誰だったかというと、それは黒田官兵衛。後に洗礼を受け、キリシタン大名となりました…が、この時は大変でした。

村重に謀反を改めるように言いに来たのですが、そのまま捕らえられて牢に1年近く幽閉されたのです。

落城の際に助けられましたが、長く牢に入れられていたので足が不自由になり、歯や頭髪は抜け、皮膚もボロボロだったとか。希望のない長い苦痛ですからね。想像に余りあります。

牢があったのは「免許センターやアリオの辺り」だとネットで見かけたので、あの辺りかなとシャッターを切ってみました(今日のカメラは大丈夫☆)。また官兵衛が牢の窓から藤を見て勇気を得たという逸話も残っているので、現在の藤の木町ではないかという人もいます。そうだとすると、駅を越えた向こう側、イオンモールとかある辺りになりますかね。

官兵衛も私が好きな人物なので、右近と官兵衛、この二人がいた城として有岡城はマストだったんですよね。両者どちらにとっても全然いい思い出になってないと思いますけど...(。-∀-)
この際だから有岡城を「試みの城」と名付けてみましょうか。「試み=試練」を受けて尚信じ続けた者が勝利したことも、有岡城の歴史として記憶されてほしいところです。



官兵衛幽閉地?

官兵衛幽閉地?

551のある時~


実は今日もSさんと待ち合わせをしています。伊丹で見送ると言ってくれていて。それなのに私ときたら、バスで1回、電車で1回乗り間違いをして、待ち合わせに遅れること1時間…。

乗換駅でようやく会えたのですが、こんな鈍くさい私に3日間も同行してくれるなんて、Sさん聖人の域に達していると思います (;^ω^)


大阪国際空港


そんなこんなで伊丹空港へとカムバック。こちらは「大阪」国際空港で、海の方にあるのが「関西」国際空港なんですね。潔く「伊丹空港」にしたらどうかと思うんですけど?

大体、空港は大阪府でなく兵庫県にあるんだから、「大阪」の名称にこだわる必要ないですし。それを変えられないのが、お役所的なものなんですかね。

いやいやそれならば、名称だけでなく、その古い体質から変えるべきじゃないでしょうか。私みたいな鈍くさいおばちゃんに言われたくないでしょうけどね。それに…その鈍くさいおばちゃん自身がもっと古いところを直していかなければなりませんけども!(苦笑





         ゲームチェンジはいつだ?


禁教令で迫害され殺されまでしたキリシタンたち。教会に通っていると、彼らが自分の先輩のように思えてきて、感情移入してしまいます。殉教記を読んでいてすごく悔しい気持ちになったり。

しかし考えてみれば今は信仰の自由が保障されており、クリスチャンになるのに何の支障もないのに、当時のキリシタンと比べると、人口比では少ないくらいです。

つまり、列福式を大坂城跡で行った神様ではないけれど、リベンジしなければならないのではないかと。巻き返して、悔しかった思いを晴らしていくのが進むべき道のように思います。

守りから攻めへと変わるゲームチェンジはいつ、誰によって?
今、自分からと言いたいですね。400年前の先輩が果たそうとして祈っていったことを、攻めに転じて成し遂げていきたいと、心に熱く火が付いた帰り道なのでした \(☆o☆)/fire





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