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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 西国街道のラウダーテ vol.5


今日は広島在住の皆さん with P (ぽっちゃりマダム。私のことデス)で回ります☆
いつも思うことだけど、そこに住んでいない私が、現地に住む人を案内するなんて不思議です。主よ、でもほんとの案内者はあなたですよね。行って来ます!



猿猴橋


広島市内は1年ぶり、4回目の散策です(甲子園出場みたいな言い方してますが^^;)。

去年お世話になったSさんと駅で再会し、早速持ち歩き用の地図帳をパス。実際の街歩きは現地在住の人に頼った方が良さそうなので(今回もお世話になる気満々)。

地図には行きたい所がガッツリ赤ペンで書き込んであるので、これで連れて行ってもらえば今日は楽勝のはず♪ 今回もよろしくお願いします!


早速巡礼へ ☆彡


という訳で、最初に向かったのは猿猴(えんこう)橋。挨拶もそこそこに巡礼始まってますけど、大丈夫でしょうか? ここがもう史跡地です。1597年初頭の厳冬期、26聖人はこの橋を通ったものとみられます。京都から西国街道を通り、広島城下に入った聖人たちは、猿猴橋~京橋~元安橋~猫屋橋(本川橋)~小屋橋(天満橋)~己斐橋というルートを通ったと考えられているからです。

変わった名称ですが、「猿猴」とは猿の総称。カッパなどの妖怪のことを指す場合もあるようで、この橋の名前の由来になったのは、猿みたいな妖怪だとか。パドルセーリングの人たちが涼しげに川面を滑って行きます。26聖人の頃とは隔世の感がありますね、当然ですけど。



猿猴橋

水道橋

猿猴橋

被爆石の保存

京橋


続いて京橋。やはり26聖人の通った橋です。もちろん当時からは何度も架け替えられているんでしょうから、大体同じ所に架けられている橋に過ぎません。

向こうに路面電車が見えます。橋を渡っていく路面電車を見ると、広島に来たなという感じがしますね (*^-^*)


26聖人が入れられた牢跡


さて、ここからは初めて行く史跡地で、見逃したくない所でもあるので緊張していかねばなりません。

広島市内での26聖人の宿泊地について、カトリック大阪大教区編「26聖人巡礼マップ」では「広島城内の牢で夜を過ごしたと思われる」としているのですが、そうではないと考える人もいます。

毛利時代の広島の様子を描いた「芸州廣島町割之図」には、京橋西詰の南側に「籠」(「牢」の旧字体)と記されていて、広島城の二の丸や城下町は築造中であったことや毛利氏のキリシタン冷遇策を考えると、城内ではなく、こちらの牢に入れた可能性も十分あるからです。


26聖人の宿泊地


で、京橋西詰の南側の牢だったとした場合の所在地はこちら↑。休憩中のサラリーマンがタバコをふかす公園となっております。遊具も置いてあるんですけどね、昼間は近隣のサラリーマンが集っているようです。公園だけでなく、この一帯に牢があり、26聖人はそこに入れられて一夜を過ごしたかもしれません。

26聖人ほどメジャーな、世界的に崇敬される人たちでも詳細なことが伝えられていないなら、その他のキリシタンや殉教者はどれほど情報に乏しいか…。それでも行ける所には行って、できるだけ掘り起こそうと思いますけどね、このぽっちゃりが (`・ω・´)!オリャ



牢跡

牢跡

公園

公園

キリシタン時代の教会跡


解説板も何もない所にばかり案内して気が引けますが、気合を入れて心の眼で見てください! このビルがある所がキリシタン時代の教会跡です。

見えるでしょ? 信徒たちの笑顔。ああ、聖歌が聞こえる…って、なればいいんですけど (;´∀`)ムリ?

400年以上も前のことですからねぇ。しかも禁教令下の長いときを経ていますから、痕跡なんぞあろうはずがありません。

解説板とか碑とか、カトリック広島大教区で頑張ってくれないかなと思いますけど(是非とも!)。広島にキリシタンの教会があった頃のことをイメージしてもらうため、ちょっとだけ歴史をおさらいしますね☆


広島のキリシタン


安芸の国とその首都広島は、古くから浄土真宗の牙城として知られていますが、この町がかつてキリスト教史で重要な役割を持ち、キリシタンの教会が栄えたことはほとんど知られていません。宣教師の記録に初めて登場するのは、1559年、宮島にいたキリシタン夫婦をヴィレラ神父が訪問した記録です。

この夫婦は先に福音が入っていた山口で洗礼を受け、キリスト教を保護した大内家が滅びた時に宮島へと移住した人たちでした。なのでこの時点ではまだ広島で宣べ伝えは始まっていませんでした。

その頃中国地方では毛利元就が、広島の三入高松城主、熊谷元直らの協力を得て勢力を伸ばしていたのですが、1596年、この熊谷元直が毛利氏の家臣数人と共に洗礼を受けキリシタンになりました。

毛利氏はキリスト教に対して、いい顔をしたり排斥したり風見鶏のようにころころ態度を変え、最終的には大迫害するようになるのですが、このときは好意的だったんですね。


広島の教会


1599年、広島に最初の教会が建てられ、コンファロニエリ神父と日本人修道士が赴任しましたが、翌年この教会は閉鎖されてしまいました。関ヶ原の戦いで負けて、毛利家が領地を減らされたからです。しかし1601年、新しい領主として広島に入城した福島正則は、キリスト教に対して寛容で、家臣に多くのキリシタン武士(パウロ志賀親次、ルイス入江左近、レオ佃又右衛門など)を召し抱えました。

そこで宣教師は山口から広島に巡回して、60人に洗礼を施しました。こういった地道な活動が実を結び、1604年に広島の教会は再開され、福島正則が広島領主だった時代(1601~1619年)に広島のキリシタンは全盛期を迎えました。

福島正則は秀吉の家臣ですが、イエズス会大坂教会でヴィセンテ修道士の説教を聞き、キリシタンに好意を抱くようになり、前の領地の尾張清州でも教会に大きな地所を与えていました。

更に広島移封にあたり、親交のあったミゲル黒田直之(黒田官兵衛の弟)を通じてイエズス会士の来訪を求め、1604年マテウス・デ・コーロス神父が来広。1605年に正則から毛利氏家老佐世元嘉の屋敷跡を寄進されたのでした。その場所がここ、現在信金中央金庫中国支店などがある一角なのです。うーん、栄えていく話をするのは気分がいい♪



きり志たん新開


また「埋め立て」なんていうと、現代のことかと思ってしまいますが、なんと!キリシタン時代にもバンバンやっていました。

キリシタン時代の広島教会の南側、平和大通りを跨いだ現在の富士見町付近は河口部にあたり、埋立が進行していて、古地図には「きり志たん新開」と記されています。

「きり志たん」というのは、恐らく「キリシタン」の、いい意味の当て字なので、キリスト教徒がいいイメージで捉えられていたことが分かりますし、新しく埋め立てられた地にキリシタン関係の施設が建てられたので、その名が付けられたものと考えられます。


キリシタンの活動「慈悲の所作」


広島のキリシタンたちは「慈悲の所作」に励み、ヨアキム九郎右衛門(188福者の一人)を始めとする「慈悲役」が任命されて病者や貧者、埋葬などの活動を率先していたと記録されており、1613年にハンセン病者を手当てする施設も設けられたので、恐らくそれらがあったのが「きり志たん新開」ではないかと。

大通の向こう、あの辺りですね。昔はこんなに道広くなったろうから、道の途中くらいからは「きり志たん新開」だったかも。いずれにしても、この辺りはキリシタン時代の信仰の中心地ですね。あぁ、やっぱり碑の一つもお願いしたい。。



明信院


「今は何もない」なんて言い方を、いつまでするんだろうと思いながら、今度は浦上キリシタンの収容所跡へと向かいます。

これが、キリシタン時代の教会跡から意外と近いんですよね。

はい、着きました、明信院。大きく「東本願寺広島別院」と書いてありますが、「明信院」の文字も見受けられます。

明信院が東本願寺派の広島別院になったのかな? 浦上キリシタンの頃のことなどどこ吹く風というくらい、新しい建物、新しく整備された駐車場ですね。



広島大学跡


次なる目的地へ向かおうと歩いていると、「あそこが昔の広大跡ですよ」とSさんが。

え!こんな街中にあったんだ。ここで丹下健三は学んでいた訳ですね。あ、来ることができてちょっとうれしい♪(ちょっとかいっ)

ここで学生時代を送っていた丹下健三は、後に自分が平和記念公園や広島平和記念資料館前を手掛けるとは、思ってもみなかったでしょうね。

原爆自体、どこかに落とされるとは考えてもみなかっただろうに、それが自分の故郷にとは…。今年も8月6日はめぐってくるけど、日本人は、いえ世界は、この日を通して何を悟らなければならないのか考えてしまいます。その宿題を未だ解けていない気がして。



広島市役所本庁舎


通り沿いには広島市役所本庁舎。旅行者にはあまり関係がない場所ですけど、庭の碑に目が留まりました。

ここにあった前の本庁舎も原爆で猛火に包まれ、中の職員が犠牲となったのだとか。

戦争博物館なるものが世界各地にあるけれど、広島は街全体でその役割をしている気がします。


庭の解説碑

広島市役所本庁舎

広島市役所本庁舎


 路面電車に乗って☆彡


太田川


それでは路面電車に乗って、己斐川の支流、太田川のほとりにあるキリシタン殉教碑を目指しましょうか。

もうここは、Sさんを始め、広島の皆さんに見せたいのです! 使命感を持ってご案内します。

去年Kちゃんと来たときは、しゃべりまくってて碑を見逃し、雨の中さ迷った記憶があるので(そんな人間がよく案内を買って出るなと思うけど)、今回はそんなヘマをせぬよう気を付けて参ります☆


キリシタン殉教碑


そうしましたら、西広島駅から徒歩10分で、キリシタン殉教碑に到着。

前回苦労したので、こんな近かったっけ?という感じです (^^;)

ここで…、というか、ここから近い川辺で処刑は行われたとみられます。

殉教者の名前は、広島初の殉教者、ドミンゴ星野から書かれていますね。1616年から1654年の殉教までが記されています。磔(はりつけ)、斬首、火焙り、牢死、穴吊り…。少なくとも牢死はここではなかったでしょうね。だけど、ここに碑を建てている――。

殉教者を皆顕彰しようとした意図は理解できますが、碑を建てる位置としてここを選んだのは、原爆関係の史跡が多い市内中心部より、若干郊外にしようという配慮があるような…? キリシタンの存在や殉教が原爆に追いやられてるような気がするのは、私の勘繰り過ぎでしょうか。


広島での殉教


1616年、広島のキリシタン、ドミンゴ星野が死刑に処され、翌年、明石掃部の子、明石内記を匿った廉(かど)で佃又衛門一家が処刑されました。しかし1619年の記録には、弾圧にも屈せず教会には300人の信徒がいると書かれています。

この年福島正則は改易されて、浅野家が広島に、水野家が福山に入ったため、迫害は厳しさを増すようになりました。1623年将軍家光が誕生すると、江戸では50人が火刑に処され、キリスト教禁令が再発布されました。

そこで1624年1月広島でもキリシタン改めが行われ、2月16日にフランシスコ遠山甚太郎、3日後にマチヤス庄原市左衛門、3月にヨアキム九郎右衛門が殉教しました(この3人は2008年に列福)。


キリシタンの行方


1634年、己斐川(現在では太田川という方が正確)のほとりで5人が火刑に処され、1636年には一人が穴吊りの刑で殉教。1644年からは摘発された信徒が江戸送りになりましたが、1645年に送られていった2人は、死ぬまで棄教しませんでした。

1653年には広島の牢内にいたキリシタン16人の内11人に死刑が言い渡されました。厳しい拷問を受けて、すでに4人が牢死していたので、実際に処刑されたのは7人でしたが。もう教会が無くなって数十年も経っているのに、信仰を持ち続けただなんて…。

すごいことだと思うと同時に、胸が苦しくなってきました。解説板一つないのも辛いけど、詳しく知るのも力が要ります。

原爆の被害は甚大で、キリシタンの殉教とは比べものにならない規模かもしれませんが、こういう小さなジェノサイドにも目を向けないことが、人の心の中で、何かが欠け始めるきっかけになるのではないかと思ったり。考えさせられますね。



キリシタン殉教碑

殉教者

太田川

ノートルダム清心

ココイチ


駅に戻るとココイチがあったので、体を休めつつランチタイム☆

身の上話をしたり、キリシタンの話をしたりして、午後は平和記念資料館を見に行こうかなんて話していたのですが、路面電車に乗ってから計画が狂い、次の場面は廿日市に…(^▽^;)アハハ



 廿日市へ行きましょう!


洞雲寺


着きました、廿日市の洞雲寺! 路面電車を乗り間違えたり寝過ごしたりして(しっかりしてなくてゴメン)、時間の制限もあってこちらに目的地変更したのです。

でもこちらも来たかったので…、来て良かったと思える過ごし方をしましょう♪

見るからに由緒ありげな洞雲寺は、解説板を読むのも疲れるほどの名刹(雑な紹介でスミマセン)。

ネットで検索してみると、収蔵品には県重要文化財7件、市重要文化財7件が含まれているんだとか。案内板では唯一、陶晴賢(すえはるかた)の墓というのに惹かれましたが、境内広そうで見つけるのに時間がかかりそうで割愛。


洞雲寺の浦上キリシタン


そんな我々が、それでもこの寺に来たのは浦上キリシタンの流配所だから。境内広くて、どこにどんな形で収容されていたのか分かりませんけど。ここにいたのは、改心者たちですね。最後まで棄教しなかったのは、五日市のツネさんと、西条の39人だけですから。

でも一人ひとりに事情があり、考えることもあったんでしょうから、誰のことも断罪することはできません。表面的にでも改心(棄教)した人たちが、改心しなかった者たちより苦しまなかったとは言い切れませんよね。

その人たちが天の前に申し訳なく思い、苦しい心情で祈ったことを、神様は覚えて信仰の自由を与えてくださったのかもしれないですし。



洞雲寺

解説板

山門

五三の桐

蓮教寺


続いて廿日市の蓮教寺へ。この寺の境内にあるソテツは、元津和野藩船屋敷に植えられていたものだとかで、それが見たくてやって来ました。

津和野藩船屋敷が目当てなんですけど、そこにどうやって行っていいのか分からず、ソテツが移植されたこの寺で聞けば良いだろうと思ったのもあります。

しかし、檀家さんに聞いても、住職の奥様に聞いても知らぬということで、思わぬ難航にぶち当たりました。。少なくとも同じ地域内だろうに、そんなことある?みたいな。

お寺の方々はとてもいい方たちで、あれこれ考えてくれて「中央市民センターの所に碑があるから、きっとそれがそうよ」と教えてくれました。感謝は感謝です。情報はちょこっと違ってましたけど...(~_~;)カンシャ



蓮教寺

ソテツ

解説板

廿日市本陣跡


中央市民センターの所にある碑というのは、「廿日市本陣跡」碑でした。これも立派な史跡ですので、来ることができて有り難いこってす。

中に入って職員さんに同じことを聞いてみると、地図まで出してきて、津和野藩船屋敷跡の正確な場所を教えてくれました。

職員の中でもそこまで見に行ったことがある人は、ほんの一人か二人みたいでしたね。近いのに。

私たちが尋ねるので、逆にそれが興味を引いたようで、「そこにどんな意味があるんですか?」とか聞かれました。そもそもこの瀬戸内海に面した広島の廿日市に、日本海側の津和野藩(島根県)の施設があることに疑問を持ってほしいところです。人のこと言えるような立場ではありませんけども (;´∀`)ダネ



中央市民センター

中央市民センター

廿日市本陣跡

周辺地図

クランク


むむっ! このクランク。昔の街道の特徴ではないですかっ。そっか、さっきの中央市民センターが廿日市本陣跡ってことは、ここを通っていたんだ西国街道!

もう少し南の国道2号線が今では広くてメジャーだから、そちらを通ったかと思ってましたが、なんと!(興奮し過ぎて情報をうまく伝達できてないですね。整理して言いましょう⇒)この道を26聖人歩いています。

26聖人は廿日市には泊まっていませんが、通ってはいます。だからこの道は、彼らが歩いた殉教路ってことに…。私的には大発見ですが、この衝撃をどう伝えていいのか分からず、感動を噛みしめるばかり(アヤシイ表情をしていたら、それが合図)です。史跡ばっかやん。大切に歩かねばの。



津和野藩御船屋敷跡


中央市民センターの職員さんが教えてくれたように、「道なりにずっと行って、神社にぶつかったら振り返る」と、確かにありました、津和野藩御船屋敷跡!(^O^)ワーイ

津和野に流配されることとなった浦上キリシタンが、瀬戸内海を渡って来て入れられた場所です。全然ワーイじゃないな(ボソッ...)。

今では完全なる住宅街で、海も全く見えませんが、この付近は江戸時代、広島湾に面しており、津和野藩が特産の石州紙を大坂に搬出するため、広島藩から土地を借りて御船屋敷を設けておりました。


津和野預けの浦上キリシタン


1868年7月、津和野藩預けとされた浦上キリシタン高木仙右衛門以下28名は、尾道から海路この地に至り、陸路3日かけて津和野の光琳寺に向かいました。そこで減食の上、三尺牢に入れられたり、氷の張った池に落とされ水責めにされたりして、殉教者が多数出ました。彼らにとってここは正に、死出への旅の玄関口だったかと。

また高木仙右衛門は浦上キリシタンの象徴というか、一番の義人なので、仙右衛門がロザリオを繰りながら歩んで行った所だと思うだけで、胸が熱くなります。



津和野藩御船屋敷跡

津和野藩御船屋敷跡

神社

光禅寺


それでは本日のラスト、五日市の光禅寺へ。

浦川師の「旅の話」には、「興善寺」と書かれていますが、こちらで間違いないようです。

入口が分からず周りをウロウロしたので広大さが実感できましたが、光禅寺は旧佐伯郡最大の寺院でした。それで寺院の権威をかけてでも改心させようとしたんでしょうか。


光禅寺の浦上キリシタン


広島藩預けとなった浦上キリシタンは最初全員が尾道の寺に収容され、そこで30余名が亡くなったことは昨日の旅行記で書きましたが、その後、もっと少ない人数で各地に分散する方針が取られました。信徒たちを心理的により弱くさせようとしたんですね。

それで五日市に3家族が送られ、光禅寺には喜蔵の一家14人が収容されました。はじめ丸一日は庭に晒され、人々が「キリシタンって、天狗かお化けかと思ってたけど、人間みたいだよ」とか言っていたと「旅の話」に書かれています。

粗末な建物で十分な食事も与えられないまま、喜蔵夫妻ら老人と、伝道婦ツネの娘くらが亡くなりました。そんな困難な状況で、最後まで棄教しなかったのはツネ一人だった訳ですが、他の人たちも、明治4年4月に広島市内に移された後、ツネの説得により棄教を取消しました。

誰だって棄教なんてしたくてしたのではないのですから、責められません。それで五日市の殉教者は3人で、この人たちを顕彰する五日市キリシタン記念碑日本アライアンス教団五日市キリスト教会の前に建てられているんですが、なぜあの場所に?という感じがちょっと。光禅寺に建ててくれっていうのも難しいんでしょうけど、基本一番近いカトリック教会が妥当かと思います。



解説板


本堂

経堂



        

        「西条のキリシタン史」を語る!


夜少し時間をもらって、西条の人たちの前で「西条のキリシタン史」について話させてもらいました。私が歴史を語るだなんて、すんごく僭越なんですけども、聞いてくれる人たちの人格のおかげで、思いっきり話してくることができ、溜飲が下がりました。

西条を訪問すること自体が去年からずっと願っていたリベンジだったのですが、そのことまで話す機会をもらえて感謝です。

ただ薄々気付いてはいたけれど、旅の疲れが出始めて、もう立っているのもやっと。自分でも笑ってしまうくらい真っ直ぐ歩けません。明日は帰るだけだからいいのだけど、その前にひと仕事しようと思っているので、そこまでは体力もってほしいな。

そう思うと、昨日西条を先に歩いておけたのは、やっぱり良かったんだなと。初めて尽くしでは人を案内できませんもんね。さすがすべてをご存知の神さま! ならば明日もその御手に委ねて…おやすみなさい(●^o^●)ハレルヤー


(翌日は短いので続けて書きますね↓)




朝ご飯…♪


翌朝、鼻孔をくすぐる匂いに気付いて起きていくと、きゃー!ご飯っ(≧∇≦)

玉子焼きに焼き魚、みそ汁って、朝から最高かよ!と思いました。コメうまい。頑張っちゃお。性格が単純に出来てて良かったと思う朝なのでした☆


除湿ボーイズ


Kちゃんと駅に向かい、駅で男性組と合流。いいですね、梅雨空に爽やかな風を吹かす除湿ボーイズ。(勝手に命名)

一時間くらいでサッと西条だけ回る予定なので、最初からテンション高めでも大丈夫そう。

では行きましょか。Sさんに地図を渡して、本日も連れてってもらう作戦で。


参道


まず向かったのは、私が行き損ねていた駅北側のお寺。教善寺です。

参道からして、町中にあるような雰囲気じゃないですね。松の年輪考えただけでも、畏れ多くなるような。

浦上キリシタンの収容所となった寺院は、どこも古刹名刹であることが共通点だなと思いました。

そういう権威ある寺でなければ、キリシタンなどという邪宗門を安心して任せられないというのがあったのでしょう。



教善寺


教善寺の境内はそこそこの広さ。どこに信徒が入れられていたのか、知るのは難しいですが、ここのどこかであったことは確か。

ここに、自分と同じ神さまを信じ、同じ主を愛する人たちがいたんだな――。

と、リアルに「感じる」ことは難しくて、私も十分できているかと言えば、できていないのだけど。

でもこうやって「知ろう」としていることが、そこへつながっていくのだと思いますね。少しずつ熟成するようにして、思いも、祈りも通じていくのではないかと。今は「知ろう」とする第一段階に足をかけているだけでも、良しとしていいんじゃないかと思います。



鐘楼

境内

山門

教善寺

真光寺


教善寺の次は真光寺。昨日は荷物引きずってたから遠いと思っていたけど、それほどでもありませんでした。

他の地域の話ですが、浦上キリシタンの収容所になっていた寺の住職に、「キリシタンが寺にいたことを知っていますか?」と聞いて回ったところ、知っていたのは5分の1だったそうです。

ここの人も知らないかもしれませんね。


福神井戸


駅の方に戻ってきて、酒蔵通りへ。福神井戸には今日も母子が水を汲みに来ています。なんか良い光景◎

26聖人も飲んだであろう水がを汲みたくて、「こんにちはー」と子供に話しかけながら近づいて行ったら、胡散臭そうにガン見されました。その対応、現代においては正しいね☆(ちょっと寂しいけど...)


四日市本陣跡


井戸のすぐそばには四日市本陣跡。この辺りに26聖人が泊まったであろうことは前にも書きましたが、よくよく考えるとすごいことです。

今日一緒に歩いている人たちは、ここを生活圏にしているのですから。私が受けるのとはまた違う衝撃を受けるのかもしれませんね。

しかしこの人たちが西条に住むようになったのは、広大が移ってきたからと、近畿大のキャンパスが置かれるようになったからなのだから…、もしかしたら西条に若い人が住むように神さまが働きかけたのかもしれません。26聖人が祈り、浦上キリシタンが苦難を忍んだ地に、今も命の花が咲くようにと。



円通寺


ラストは円通寺。6日に及ぶ、基本的には自分一人で動いた旅のフィナーレです。石庭うつくしー。

「旅の話」で西条(昔は四日市と呼んでいた)に割かれた行は少ないのだけど、こんなことが書いてあります。

「四日市では…(中略)パオロ山口丑之助の如く信仰の熱烈な人も居た為に、孤独の若者がただ一人棄教したのみで、三十九名は毅然として動かない。三里、四里、六里、七里もの遠方から説得に来る仏僧と、毎日議論を闘はして居る。『広島に居る者は皆な改心した、お前等も是非改心しろ』と仏僧が迫れば、『他所が改心したからとて、我々までが改心する訳はない』と抗議して何時になつても屈しなかつた」と。

広島藩に流された179人のうち、最後まで不改心で通した信徒は40人。そのうちの39人が西条の、今日回った3ヵ寺に囚われていた者たちでした。それは勝利であり、後に残した大きな遺産です。

でもそのために、西条では尾道を除く広島藩の流配地では、最も多い4人の殉教者を出しています。だからその人たちは帰れなかった訳です、長崎に。

10代20代という、普通ではあまり死ぬことがない年齢の人たちがこの地で命を落としていったことも、歴史の記憶としては刻んでおかなければなりません。そして今、だからこそ今、同じ年代の人たちがここで祈っているのを見て、私の心は石庭よりも美しさを感じ、震えます。



東広島駅


Kちゃんに送ってもらい、東広島駅へ。新幹線しか止まらなくて、本数も少ないのでちょっと閑散としています。

Kちゃんは「東広島駅って、何か暗いんですよー」と言っていましたが、夜明け前の暗さと、静けさのようにも思えます。

この駅、いつか誰か大きな人を迎えるために用意されているんではないですかね? その方が来るときまでは、まだじっとしているのかも。それまでにやるべきことを、私たちがちゃんとできるよう願いながら…(*^-^*)






         宙に浮かぶ相似形


京都から広島を経て長崎へ歩んで行った26聖人と、長崎から広島に流配されてきた浦上キリシタン。この二つに加えて、長崎と広島には原爆という共通項があります。

明治初頭、政府がおかした愚策が、どのように信仰者たちを直撃し、人生全体をめちゃくちゃにしたかをつぶさに見るため、私は浦上キリシタンの収容所跡を訪ねています。だけれど勝利を得たはずの彼らの、その後の運命を思うと、慄然としないではいられません。

喜びと感謝で歌いながら長崎に帰って行った浦上キリシタンの頭上に、1945年8月原爆は落とされたのです。これは軍部が中心になって行った侵略戦争のつけを、信徒たちが払ったようなもの。なぜだろう、なぜ彼らの上に?

最初の殉教者と最後の殉教者、そして地球上に今までにたった2個だけ投下された原子爆弾。これらを線で結ぶと、長崎と広島は同じ形で浮かび上がります。歴史の宙(そら)に浮かぶこの二つの相似形を、人類はどう解けばいいんだろう。

ここに人が希求した平和へのヒントがあるように思えてなりません。とても大きな人類の命題を前に、自分の非力さを感じずにはいられないけれど、たとえ全き答えが得られないだとしても、問い続けなければならないこともあるのかと。だからこれからも祈りの旅を続けていこうと思います。心に抱いた愛を灯し火にして――☆






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