本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 西国街道のラウダーテ vol.1

 西国街道のラウダーテ vol.1


岡山に行く用事ができたので、大阪から岡山、広島へとめぐってみようと思い立った5月。初夏の風に吹かれながら、心の目を透明にして見て回ろうと思います。まずは大阪から…(#^^#)



北大江公園


大阪在住の親友Aに連絡して、今夜泊めてもらうこととなったのですが、忙しいAは日中会えないので、Mさんと回ることに。

Mさんとは京都の史跡を案内したときに会っているので、顔なじみ。私がキリシタンに関心を持っていることも了承してくれているので話が早い(?)です☆

待ち合わせて最初に向かったのは北大江公園。ここ、キリシタン時代の教会跡ですね。当時は「教会」という呼び名がなかったので、「南蛮寺」と呼ばれていました。現在はカラフルな子供用の遊具が並ぶ公園です。

1583年、大坂に入った秀吉は大坂城の築城に取りかかりました。そこへ宣教師オルガンティーノと共に赴いた高山右近は、城の近くに教会用地をいただきたいと秀吉に申し出ました。大坂城を盛り立てたいと考えていた秀吉にとっては、都合の良い申し出だったため、喜んだ秀吉は城外で一番景色が良い土地を与えました。

それが八軒家船着場からほど近く、高台となっているこの場所で、土地の広さは約2千坪。破格の待遇でした。右近はここに、五畿内で最も美しいと言われた河内岡山の教会堂を移築し、自費ですべてをまかないました。

1585年この教会が完成すると、人々が見学に訪れ、神父や修道士たちは対応に追われて座る暇もなかったといいます。

今は当時の壮麗な姿を想像するのも難しいけれど、感謝と喜びで胸をいっぱいにした右近がいた様子は目に浮かぶような気がします。生涯にたった一度だけ細川ガラシャが訪れた教会もここだったでしょうね。



南蛮寺跡

南蛮寺跡

中大江公園


玉造方面に向かって、少し南下すると中大江公園が。この公園と隣接する小学校の辺りが、昔牢屋があった所です。

26聖人はここに2回宿泊したと考えられています。京都から来た1597年の1月4日と、堺を市中引き回しになって戻った1月9日ですね。

この間に「沙汰待ち」をして、そこから本格的に長崎へと旅立って行ったのです。私の足で数分ほどの、こんな近距離にキリシタンの繁栄と迫害の両方の歴史が刻まれているなんて…。



日本基督教団 大阪東教会


ふと見ると、公園の近くに古めかしい教会堂が。日本基督教団の大阪東教会だそうです。随分と歳月を重ねていそうな外観です。

横手に回ると新しい鉄筋コンクリート造の建物があるので、今はこちらをメインに使っているもよう。

昔の教会堂を残してくれているのが有り難いですね。場所的に見たら、キリシタン時代を引き継いでいるかのようで♪


大阪東教会

大阪東教会

新しい建物

史跡 難波宮跡


高速道路にぶつかって左折すると、広大な難波宮(なにわのみや)跡が。街中にこんなに広い土地をキープしておいていいのかと思うくらいの規模です。

それもそのはず、難波宮は645年の乙巳の変の後、孝徳天皇が遷都した宮。小学校で習った「大化の改新」はここから行われた革新政治だったのです。

大阪歴史博物館で見たあれですね。あっちには等身大の人形やらでワンフロア使って再現してたのに、こっちは雨ざらしの遺構が見えるだけです。あれが大極殿の遺構なのかな?それとももっと新しいものか?

いずれにしてもこんな感じだと、超一流の素材を持ってるのに、それを生かす気がないように見えちゃいますね。歴史博物館でAR使って再現するより、こっちの整備すべきだったんじゃないかなーと。府民でも大阪市民でもないですけどね (^-^;



難波宮跡

解説板

難波宮跡

解説板

初夏


初夏の日差しは爽やかで、季節は花盛り。

ランタナの群生にアゲハチョウが舞っていました。

会心の一枚がこちら(←)。私にしては上出来です。

写真は光を味方につけないと難しいですね☆


解説板

ランタナ

越中井


さぁてと、越中井(えっちゅうい)に着きました。ここは細川忠興の邸跡で、越中井は邸内にあった井戸です。

1600(慶長5)年、関ケ原戦の直前、忠興が家康に従って上杉攻めに出陣中、石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとこの邸を囲んだのですが、忠興の夫人、玉(洗礼名はガラシア)はこれに従わず、家臣に胸を突かせて37歳の生涯を閉じました。

細川ガラシャはキリシタンだけど、この死はは殉教ではないので、「殉節」の地だと書かれていますね。道を挟んだ所にある越中公園も邸跡なのでしょう。発祥の地コレクターが喜びそうな「青刻昆布発祥の地」碑が建てられていますけども...(''Д'')



解説板

越中井

越中公園

青刻昆布発祥の地

カトリック玉造教会


続いてカトリック玉造教会へ。大阪府と兵庫、和歌山を管轄する大阪大司教区のカテドラル(司教座が置かれた聖堂)です。

ここも細川邸の跡地だと言われていますね。当時の大名屋敷の広さを考えると頷けます。

青空に映えるこの聖堂は建築家 長谷部鋭吉の遺作。長谷部はカトリックのクリスチャンで、自宅を開放しての聖書勉強会に応じたのですが、それを機に村野藤吾が後に受洗したんだとか。

村野藤吾は広島のカテドラル、カトリック幟町教会を作った建築家ですね。では中に入ってみましょー(^^♪


細川ガラシャ解説

細川ガラシャ解説

高山右近解説

高山右近解説

聖堂の解説

ファチマの聖母

右近像

ガラシャ像

聖堂


わぁ、いつ来てもいいですね!

正面の大壁画と左右にある壁画は、日本画の巨匠 堂本印象によるもの。

最初見たときは仏教画のようで「えっ?」と思いましたが、慣れました。

キリシタンがいた大阪だから、キリシタン時代の雰囲気を取り入れようとしたのかもしれないですね。美術的な価値は大きいと思いますし。左右の絵は高山右近と細川ガラシャ。この2人をえらい推してますね。外にも解説板やら像やら建てられてました。



中央祭壇画

高山右近

細川ガラシャ

ステンドグラス

パイプオルガン

入口

キリスト像と鐘

磔刑像

城星学園


お祈りを済ませて外に出て歩いてみると、この一帯はカトリックの城下町みたいな感じだと分かります。

ほぼほぼ隣の城星学園は、宇喜多秀家邸跡。だからこの辺りは一時「岡山町」だったときもありました。岡山は宇喜多秀家の所領地ですもんね。

宇喜多秀家はキリシタンと関係が深い人物です。正室の豪(前田利家の四女)はキリシタンですし、重臣の長船綱直もそうでした。しかしそのことが一因となって家中にお家騒動(宇喜多騒動)が起こり、関ヶ原の前に家臣団の三分の一が去ってしまったのは非常に痛いことでした。

関ヶ原の敗戦後、秀家は薩摩に逃げ島津家を頼ったのですが、島津忠恒は家康に秀家の身柄を渡しました。助命歎願により八丈島に流刑となり、子孫は現代まで生き延びましたけれど。そうそう、秀家に仕えたキリシタン武将には、明石掃部全登(あかし・かもん・てるずみ)もいますね。26聖人が長崎に向かって行く道中、岡山では明石全登が世話をしたので待遇が多少は良かったとか。いろいろつながっています。



扶助者聖母会

城星学園

前の公園

「岡山町」

大阪女学院


次に見えてくるのは大阪女学院。ここまで来るとプロテスタント系の街になるようです。

実はこの場所は前田利家の邸跡で、前田利家終焉の地でもあります。前田利家は五大老に列せられ豊臣秀頼の後見人を任じられた人ですね。

秀吉の死後、徳川家康が勢力拡大を図るなか仲裁役として尽力ましたが、秀吉の死の8ヶ月後に大坂の自邸であるこちらで病没しました。この頃高山右近は前田家に身を寄せていたので、右近もここに来たことがあるんじゃないかと思います。


前田家の姫たちと細川家


ここでちょっと面倒くさい人物相関図をご紹介することをお許しください。前田利家の四女が宇喜多秀家の正室だったと書きましたが、利家の七女は細川忠隆(ガラシャの長男で嫡男)の正室として嫁いでいました。石田三成が細川邸を取り囲んだとき、その中にはガラシャらと一緒に七女の千世がいたんですね。

千世は姑ガラシャと運命を共にしようとしていたんですが、近所の宇喜多家に姉の豪が嫁いでいるじゃないですか。豪が言うんです。「こちらに逃げて来なさい」と。千世はガラシャに逃げようと持ち掛けますが拒ばまれて、結局自分だけが宇喜多屋敷に逃げ延び、その後実家である前田屋敷へと移りました。

それを後で聞いた細川忠興は激怒。「玉が死んだのにオマエの嫁は何で生きてる!離縁しろ!」→長男「ヤダ」→廃嫡。

こういうのをお家騒動といい、江戸時代ならお取り潰しもあり得る危険なやつです。忠隆は剃髪して隠居し、千世を離縁して前田家に返しています。結局離縁したのだから、離縁自体が嫌というより、父忠興のやり方が嫌だったのでしょう。


ガラシャの子供たち


長男が廃嫡されて、お鉢が回ってきたのが三男 忠利でした。次男の興秋は忠興の弟 細川興元の養子になっていて、そちらの家を継ぐことになっていたのです。江戸で忠利は人質生活をしていたのですが、呼び戻されることに。しかし代わりの人質が必要となり、忠興は次男の興秋を送ることに決定。

これを「あり得ん!」と憤った興秋は、江戸に向かう途中で出奔し、大坂の陣では豊臣家に味方し大坂城に入城。これを「あり得ん!」と怒った忠興により勘当され(皆短気過ぎるよ!)、興秋は大坂城落城の際逃げ延びたのに、忠興の命により自害させられました。

それで兄たち2人がいなくなって、三男の忠利がめでたく細川家を継ぎました…って、全然めでたくないですよね (~_~;)コワイワ-

ちなみにガラシャがもうけた三男二女の中で、洗礼を受けたのは女の子2人と興秋の3人。興秋の養子先の興元もキリシタンでした。次男の興秋を飛び越して三男 忠利が家督を継いだのも、キリシタンだったことが少しは関係していたかもしれませんね。

この時代キリシタンであるということは、信仰より政治的な意味合いとして取られることが多かったのかと思います。



大阪女学院

ヴォーリズ建築

大阪女学院

ヴォーリズ建築

OCCホール


大阪女学院の隣にあるのが大阪クリスチャンセンター。OCCホールでは各種の催しが行われています。

ゴスペル落語会とかは是非とも行ってみたいものの一つ。福音亭ゴスペルとか、神田ナザレとか、皆さん牧師さんなんですが、名前からして振るってますわ。

この際振り切れて福音を伝えてもらいたいですね☆



 真田丸へ!


善福寺


それでは更に南下して、今度は真田丸跡へと向かってみましょう。実際に行くと、地図で見ていたときは分からなかったけれど、急に段差が出てきて、ここが盛られている地形だと分かります。

善福寺で大河ドラマ「真田丸」の折に作られたであろうマップを確認し、出丸の位置をインプット(できたらいいね^^;)。とりあえず横の坂道を登って行きましょうか。


周辺地図

真田丸跡

心眼寺


坂を登って行くと左手に心眼寺、右手に明星学園。出城跡の碑があるので、先に心眼寺へ参ります。

この寺には坂本龍馬を斬った犯人候補 渡辺篤、桂隼之介の墓もあって、歴史ファンが多く訪れるようです。

真田信繫の墓が建立されていて、「墓ここなの?」って思いますが、供養塔というべきものですね。


出城跡の碑

犯人候補の墓あります

渡辺篤、桂隼之介の墓

解説板

真田丸顕彰碑


心眼寺の向かい、真田丸顕彰碑があるのが明星学園中・高等学校のグラウンド横。歴史ファンがタクシーで乗り付けて写真を撮って行くのを目撃しました。

最近は若い女性のファンも多いみたいですね。高そうなカメラ持った中高年男性はもっと多いですけど。

明星学園のある所が真田丸の中心だったと考えられています。大坂夏の陣で真田丸に籠って(あるいはそこから出て)戦ったのは、大坂城五人衆と呼ばれる武将たち。

ネットでは「大坂ファイブ」「OSAKA5」とも命名されていますが、真田信繁、明石全登、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永がそのメンバーです。このうち明石全登がキリシタンであることはドラマでも描かれ知られていますが、実は後藤又兵衛も一時期キリシタンでした。

それで私としては大坂城五人衆が気になっちゃっている訳ですね。大坂城は伴天連追放令を出した秀吉が築いたものなのに、最後守ろうとしていた中にはキリシタンがいたなんて不思議だなと思って。家康がもっとアンチ・キリシタンだったからだとは思うけれど。



明星学園


坂を登りきって正門の方に回ってきました。明星学園は男子修道会マリア会(マリアニスト)が運営するカトリックの男子校。

東京の暁星学園、長崎の海星学園と同じ運営母体ですね。先ほどの城星学園はカトリック女子修道会である扶助者聖母会(サレジアン・シスターズ)の運営。

いずれも名前に「星」がついてて似ているのは、「星」に神の母マリアのイメージを持っているからでしょう。

門扉の外から写真を撮っていたら、守衛さんが「中へどうぞ」と招き入れてくれました。保護者っぽい雰囲気出してたのかも。聖堂の写真をばっちり撮れて、主に感謝!(守衛さんにも?笑



男子修道会マリア会

聖堂

宰相山西公園


玉造駅の方に向かっていると、宰相山西公園が右手に。「宰相山」という名は、真田丸を攻めた越前宰相 松平忠直が陣を置いたという伝承に因むといわれています。

一説には一緒に攻めた前田利常(前田宰相)の陣だったという説も。松平忠直は家康の孫で越前(福井)藩主だった人ですが、キリシタンだったといわれたりもします(真偽不明)。

前田利常は前田利家の子で、加賀藩の第3代藩主。利家のときに高山右近が加賀に来ており、領内にキリシタンが多くいたのでキリスト教には親しみがあったことでしょう。


前田利常の鼻毛伝説…!


ただこの利常、鼻毛を伸ばしていたことなどの奇行で有名(髭じゃなくて鼻毛ですからね!)。参勤交代で江戸城を訪れた利常が長さ一寸(約3センチ)の鼻毛をなびかせて城内を歩き回ったことは、かなり噂になったようです(備考:人間の鼻毛の長さは3センチが限界だとされる。つまり限界までボーボー)。

家臣たちは利常の鼻毛を気にして、それとなく気付かせようとしますが悉く失敗。ある日意を決して「だらしないのでお切りください」とたしなめると、利常は涼しい顔をして「こうやって馬鹿のフリをしているからこそ、加賀、能登、越中の三カ国を保ち、領民ともども楽しく過ごせるのではないか」と答えたといいます。鼻毛は策略だったのですね☆(ほっ...

聖書の中に出てくるダビデ王の話とちょっと似ているなーと思うのは私だけでしょうか (o^^o)

公園のすぐ北隣にある三光神社には真田信繫像と「真田の抜穴跡」なる洞窟があり、スロープを登ると真田山陸軍墓地があるそうですが、今回はパス。行く所が多いので次に向かいましょー。



宰相山西公園

宰相山西公園

宰相山西公園

お昼は韓国料理


玉造駅の昭和レトロ香るアーケード街で韓国料理屋を見つけて入店。もうお昼なので、ここらでひと息つくことに♪

日本語よりも韓国語がよく通じそうなおばさんが料理を作ってくれます。今日は日差しが強くて暑いので、熱中症気味だったのか、ただの水が妙に美味しいです。


お品書き

店内


 夢にまで見た南蛮文化館 (^^♪


南蛮文化館


電車で中津駅へ向かい、以前から行きたくて夢にまで見た南蛮文化館へ!

毎年5月と11月だけオープンなので、遠方に住んでいる身にはなかなか機会がなかったんですよね。行き場を失った二宮金次郎像が佇む小道を進んで中へ。

真新しいビルの中に入ると、内部には元々の構造が残っていて、若干古めかしさが目立ちます。そこは気にせずに進みますが、「複製」の文字なく有名作品が並べられていることには違和感を覚えました。その中に半分強の割合で本物が置かれているので、一般の人が見たら混乱しそう。


南蛮文化館で感じたこと。


全面リニューアルしたはずなのに、昭和の頃から変わってなさそうなキャプション(説明テキスト)がカードケースの中で変色しているのも、見ていて辛いです。このコレクションを完成させた方のお嬢さんが学芸員の資格も取って引き継いだと聞いていたので、もう少し整っているかと思いましたが…。

ここではきっとキリシタン遺物を美術品として捉え、展示しているんですね。螺鈿製品が多いのはそのせいかと。これらをキリシタンが使っていたと説明していますが、日本で輸出用に生産された物だというのが最近の通説です。全体的に解説文は大正から昭和中期くらいに考えられていた説に基づいて書かれているみたいです。その頃から新しいものを取り入れてないのかな。

ちゃんとした収蔵品カタログもないので、最新の研究成果を知る学者さんにお願いして、どこに出しても恥ずかしくない解説付き図録を作るといいのではないでしょうか。収蔵品を貸し出したりする際に、新しく書かれた解説文から情報を吸収して、それを加えるだけでも変わりますよね。ちょっと辛辣な意見になってしまってスミマセン。



南蛮文化館

南蛮文化館

南蛮ギャラリー

南蛮文化館の展示品


のっけから意見をかましてしまいましたが、展示品の話に戻しましょう。

南蛮文化館にある南蛮屏風は重要文化財に指定され、中学高校の教科書にも載っているメジャーなもので、日本人が見るとデジャヴを感じるほどです。「ここにあったのか!」という感じ☆

日本を訪れた宣教師や南蛮寺の様子が、紙本金地着彩という技法で描かれていて、落款はないけれど、作者は狩野永徳の子・光信の一門の作と考えられています。教科書には部分だけが載っていますが、全体を詳らかに見ると知らなかったところまで見えてきて興味深いです。南蛮寺の中でイエズス会宣教師が祈りを捧げる姿まで描かれていたんですね。


「悲しみのマリア像」に込められた思い


「悲しみのマリア像」と呼ばれる油彩画は、折り目がついていて痛々しいですが、とても美しい作品。福井県で代々藩医を勤めた旧家の土蔵の壁に竹の筒に収められて塗りこめられていたのが、近年になって発見されたものです。

隠さなければ守れない時代だったので、竹の筒に入れるために折り曲げたんですね。折り目が顔の真ん中を通らないようにしているところに、隠した人の気持ちが表れているように感じました。

福井はダリオ高山図書が流された地。隠れキリシタンだったであろう、藩医の家の土蔵まで見てみたいものです。土蔵が無くなっているなら、その跡だけでも。

高山右近書状や大友宗麟書状、原城址から出土した黄金の十字架など、必見な物が目白押し。真贋はまた別に考えなければならない問題で、悪気なく作られた偽物(元々キリシタン遺物ではなかった物を、骨董品屋や美術史家がキリシタン遺物だと言っちゃった物)も分別する必要がありそうですけど。まずは来ることができて感謝です。



悲しみのマリア像

黄金の十字架

南蛮屏風

パンフより

南宗寺


ラストは阪堺線に乗って、堺にある南宗寺へ。

南宗寺は三好長慶が父元長の菩提を弔うために開山したお寺。茶道に関係が深く、重要文化財に指定された仏殿・山門(甘露門)・唐門、千家一門の供養塔、利休好みの茶室 実相庵などがあります。

もちろんここに来たのもキリシタン狙い。「椿の小道」と呼ばれる道の入口付近に十字架を刻んだ香台があると、カトリック大阪大司教区編「キリシタン遺跡と巡礼の旅 マップ・ガイドブック」に書いてあったものですから。1981年に出版された本だから、多少情報が古いのかもしれませんけども (^^;)



南宗寺案内

境内

重文の甘露門

徳泉庵

三好長慶

南宗寺解説板

山上宗二供養塔

灯籠

見事な石庭


南宗寺は広そうなので、受付の方(ご住職?)とボランティアガイドさんに尋ねてみたのですが、「は? 椿の小道ぃ?」って感じで、キリシタン関係のものは「キリシタン灯籠くらいしか無いですねー」とのこと。

お堂の縁側に腰かけて見事な石庭を眺めると、その「キリシタン灯籠」とやらが見えましたが、この形の織部灯籠は茶庭ならよく見かけるもので、今ではキリシタンとは関係ないとされているもの。「キリシタン灯籠」という名称自体、早く淘汰されないかなと思ってたりします。

水琴窟の清い音も聴け、実相庵の佇まいも気に入って、見どころが多いので来て良かったと思いますけどね♪



千家一門の供養塔

石庭

実相庵

水琴窟

半井家の墓


カトリック大阪大司教区編の本に載っていた半井家のお墓(これが「椿の小道」入口付近にあると書いてあるのでかえって見つけにくい?)は、図らずもカメラで撮っていて、後でそれに気付きました。

この墓石前の香台に十字架が刻まれていると書かれてたんですが、確認できず残念。いつかもう一度チャレンジしてみたいです。

ちなみにこのお寺には、徳川家康が後藤又兵衛の刃に倒れ、葬られたという伝説があり、墓碑まであります。本当だったら元キリシタンに家康は討たれたことになりますね。さすがにウソっぽいけど (^-^;



灯籠

家康の墓碑

灯籠

重文・唐門

阪堺線


最新式の路面電車を投入しても拭いきれない、前時代的なまったり感を漂わせる阪堺線。自転車の方が早い気がする…と思って揺られているうちに、Mさんも私もこっくりこっくりと。強烈な催眠作用があるようです。

ザビエルが滞在し、26聖人が引き回しになった市中を夢か現か分からぬままに通過して、地下鉄に着くと今度はものすごい関西ノリが。

玉造の辺りはセレブな感じで、堺は江戸の隆盛を懐かしむタイムカプセル、梅田は昼夜構わずハイテンション…。大阪にもいろんな街があり、それぞれの表情があるんだなと思いました。そこへ歴史的観点を加えると、生と死のコントラストに頭がクラクラしてきます。今日が旅の初日だけど、何かすでに容量オーバーしている気が。。いやいや頑張るぞー☆




        「あなたのことが好き」?


ある人がFacebookで「あなたが好きです」と「あなたのことが好きです」はニュアンスが違う。日本語はなんてロマンチックなんだろうと書いていました。

日本語文型辞典によると、「こと」は、あるものを一つの個体としてではなく、それを取り巻く事情・思い出・声、時にはにおいのようなものにいたるまで、全てを包み込んだものとして表すそうです。

恋愛の話は苦手なのでさて置き、これを自分のこととして考えてみるなら、「神様が好き」か「神様のことが好き」の問題になろうかと。私はどっちだろう――?

たぶん「神様のことが好き」だから、神様が働きかけてきた歴史を知りたいんでしょうね。好きで行うのが一番強いという言葉があるように、この「好き」さに背中を押されて今もここにいる訳で。

ということは「神様よ、あなたのことがもっと好きになりました」と思って帰れたら、出掛けて成功だったと言えそうです。今回も良い旅になりますように!






                                         NEXT >>