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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 西国街道のラウダーテ vol.3


キリシタンに関心があり過ぎる私は、今日も午前中一人で浦上キリシタン史跡地へ向かおうとしていますが、お昼には岡山在住の人たちと合流する予定。全員初対面だから、ちょっとドキドキ。話が合うといいなぁ。少し緊張しますが、こういう機会もきっと主がくださっているのでしょう。大切にしたいと思います (o^^o)♪



大雲寺跡


ホテルを出ると、昨日は気付かなかった石碑が。「旧 大雲寺町」とあり、解説によると小早川秀秋がこの地に大雲寺を移したことに由来する町名なんだとか。

小早川秀秋、たった1年10か月しか岡山にいなかったのに、その間にこんなことしてたのね。

豊臣秀吉の正室・寧(ねね)の甥として生まれた小早川秀秋は、慶長の役では日本軍の総大将として釜山に渡り、城普請や戦闘支援を行いました。また、関ヶ原合戦後は岡山城の城主として、検地の実施、寺社領の再整備など、岡山の近代化を進めています。

頑張ろうとしてたんだろうにな。関ヶ原の2年後に21歳で死んでしまったけど。若くして死んだのは大谷吉継の祟りのせいだとか言う人もいるけれど、アルコール依存による内臓疾患が死因であるというのが通説。少年の頃から飲酒していて、深酒をすることも多かったとか。何のストレスか分かりませんけど…。だから人を裏切っちゃいけませんよ、心痛かったんでしょと、言いたくなりますね。



旧 大雲寺町

早速迷う


岡山駅前からバスに乗り、「福浜市営住宅前」停留所で下車。そこから徒歩5分と「広島教区殉教地・巡礼地案内」には書いてあるけど…、早速迷いました (*_ _)

道が斜めに走っていて、どこを歩いているか分からなくなりやすい町です。地図を持ってウロウロしているのに、おばあさんに道訊かれたりして、人との出会いは温か♪(いや、そんなこと言ってる場合じゃない)。


カトリック岡山南教会


訳も分からず歩いていると、神の助けのように前方に十字架が出現。近づいてみると、カトリック岡山南教会でした。

ここがバス停から徒歩5分のところね。ゆうに15分は歩いているけど。ここに来ようとしたのではないのですが、来ることができたのは良かったです。

カトリックの人たちは年に一度、この教会に集合してから市内の巡礼に出掛けるそうですから。私もそれにあやかって行きましょう☆


カトリック岡山南教会

カトリック岡山南教会

遥かなる一本道


カトリック岡山南教会に行けたおかげで、地図上でどこに自分がいるのかが分かり、川まで辿り着くことができました。

ここまで来れば迷いようがない一本道。目指す住吉宮はまだ見えませんけど。。

道幅が狭いのに両面通行で、その上結構スピード出して車が通り過ぎて行きます。人が歩いていることを想定してない感じですね。危険を感じながらテクテク。


一本道

車道

何か見えてきた!


しばらく行くと一本道の先に、緑を発見。あれが住吉宮ではないかと思います!

手前の?
ううん、奥のやつ。
まだまだやね。
うん、遠いね。

頭の中で誰だか分からない人たちが対話し始めましたが、気を確かにもって進んで行きましょう…。思ったより暑くて熱中症気味なのかも (-"-;A


奥の緑が

たぶん住吉宮

住吉宮


川沿いの一本道を30分ほど歩いて、住吉宮に到着!

昔は境内だったであろう前の広場では、アクティブシニアがゲートボールに興じておられます。

長崎から船で瀬戸内海を経て岡山に送られて来た浦上キリシタンは、児島湾(旭川河口)の住吉宮辺りから上陸しました。ここが昔は岡山藩の外港で、いろんな物資などが入ってくる海の玄関口でした。今は老人の憩いの場ですが、往時は随分と賑わっていたことでしょう。住吉宮には航海の安全を守る神が祀られているのだとか。ちょっと休憩していきましょう。



住吉宮

手水鉢

石碑

狛犬

浦上キリシタンが上陸した辺り


木陰に入ってひと休み。水分補給して、小さな声で賛美2曲。見ると、港の跡らしき石組が少し川に向かって残っていて、ここ信徒たちも踏んだのかなーと。

1870年1月(明治2年12月)、一匹、二匹と動物のように数えられて船に詰め込まれた97人の男女は、船酔いに苦しめられながら、出発してから6日目にここに到着。

川船に乗り換えて、浜野町の松寿寺に収容されました。それに先立つこと2日前に、男子20人も岡山に向かい、鞆に着き、弓ノ町の牢に収容されていました。後で松寿寺からは15歳以上の男子9人が弓ノ町牢に移されたので、29人が収容されるようになりました。

見ず知らずの土地で牢屋生活をすることを、「旅」と呼んだ彼らの気持ちがどんなものだったのか、私は未だに深く分かりません。ここに上陸したときの心境も。また考えは一人ひとり様々だったろうから、一概に言えるものではないのでしょう。ただどこか、何か大きなものに任せるという気持ちがあったのかもしれないですね。自分たちの運命を、ただ大いなる神様にだけ委ねようとする思いが――。



今度は北上


さっき来た道を今度は引き返す訳ですが、そこから更に北上して松寿寺まで一本道を辿ります。遠くに橋が見えるけど、あれ越えてもっと先まで行くんですね。

3キロくらいかな。平坦だから45分くらい? 炎天下だけど大丈夫だよねー( ̄▽ ̄)アハハハハ

季節は初夏で、まだ涼しい日もあるので、暑さに慣れていないのがネックです。おまけに元々体力ないですからね!(自慢になりません)


石造物


猛スピードで走り抜ける車にフラつき、危険を感じて下の道に下りましたら、道標らしき石造物が。おおっ、これを浦上キリシタンも見たかも!と思ったら俄然力が出ました。

…が、よく考えてみたら、住吉宮で川船に乗り換えてますから、徒歩ではこの道歩いてませんね、たぶん。ぬか喜びから一転、暗雲立ち込めてますが負けないぞ。松寿寺まではあと少し (* ̄0 ̄)/オゥッ


松寿寺


溶けたアイスクリームのようになって松寿寺に到着。この後どうやってバス停まで戻ればいいのか分からないのが恐ろしいですが、まずは巡礼巡礼。ここ殉教地ですから。

弓ノ町牢獄でも松寿寺でも信徒が一番悩まされたのは飢餓だったと書きましたが、飢えているところへ労働もさせ、女子は一日に縄を二百尋もなわなければなりませんでした。

またしょっちゅう御用に呼び出され、「改心せよ」と責め立てられるのですから、精神的にも体力的にも辛い毎日だったはず。一家の男たちは弓ノ町でどうやって暮らしているのか、互いのことが心配でもあったことでしょう。10か月後に瀬戸内海に浮かぶ無人島鶴島に送られるのですが、それまでに2人の女性が死亡しました。


松寿寺の殉教者


名前はモイとチサ。どちらも30代で、普通に暮らしていたら、あまり死ぬような年齢ではないですね。彼女たちのためにも祈ります。彼女たちのために「も」というのは、苦しんだのは死んだ人たちだけではないから。そして被害者側だけでなく、加害者側のことも祈ろうと思うからです。

小早川秀秋ではないけれど、良くないことをすればそこから受ける苦しみもあるはず。それを因果応報と断罪するよりは、癒されるように祈りたいです。そしてすべてをご覧になっていた神様の心が慰められるように、地上に生きる人が天の前に謝ることは、何か必要なことのような気がして。仏教でもキリスト教でもない祈りかもしれませんけどね。



松寿寺

松寿寺

樹齢600年

信徒を見ていた木

バスで岡山駅へ


少々迷いましたが、予想よりは遥かにいいタイムでバス停へ。しかもあと2分で駅前行きのバスが来るという!(*'▽')ギョーコー

頭の中が熱を持ったハードディスクのようになり、ウィンウィン鳴ってるような気がしますが、気にしないことに。

殉教地という最強にネガティブかもしれない場所へ行こうとしているのだから、何のこれしき。逆にパワースポットにしてやるくらいの心意気で。



 合流して高松城攻めへ☆彡


駅前


しかし体は疲れていたらしく、寝入ってガックンガックンなりながら岡山駅へ。降りるのが終点で良かったよ(と、きっと運転手さんが思ってる)。

噴水の所に行くと、にこやかに手を振る若い娘さんたちが(娘さんて!)。ここで3人と合流し、後でもう2人加わる予定です。

なんか人に会うっていいなぁ。戦(いくさ)が終わって、平和な世が来たみたいな。ああ、ラジオ体操第一も第二もやりたくなるような青空。


像の解説

像の基台

岡山駅

噴水広場

ランチを。


自分一人では入れないようなおしゃれなカフェでランチ。おー、若い人ってこんなに笑うんだ。私もそうだったのかな?(昔過ぎて思い出せない…)

疲れて頭のハードディスクいかれているせいか、口が思うように回りません。この際だから、食事すると見せかけて若さを吸わせてもらいましょう(ちゅーちゅー)。


備中高松駅


生気を吸わせてもらったおかげで元気になり(妖怪かっ)、吉備線(愛称:桃太郎線)に乗って備中高松駅へ。電車の乗り降りが手動です。

車体に大きく描かれた桃太郎の前で記念撮影。こんなに桃太郎に囲まれてて、「あー、桃太郎なんてもうイヤ!」となる日は来ないのだろうか(私が心配することではないが)。


清水宗治自刃の地へ


駅の周りは典型的な田園地帯。昔から住んでそうな家々がぽつぽつとあり。そんな中に「清水宗治自刃の地コチラ」みたいな矢印が所々にあるから不思議です。

それを頼りに史跡に行くので有り難いんですが、この平穏極まりない風景の中に建てられているのが、何ともシュール。

「自刃の地」とか「水攻め跡」とか、近所にそうそうないですから。


史跡船橋

船橋解説板

お寺

石碑

清水宗治自刃の地


こちらが清水宗治自刃の地。近くには家臣たちが殉死したごうやぶ遺跡という所もあります。

これを見ると、敗れても潔く死ぬなら、それは尊敬に値すると考えられていることがよく分かります。この日本人独特の考え方が非常に根強いので、清水宗治は今に語り継がれているのでしょう。

また城内の者たちの命を助けるという交換条件で、というのがあるから尚更です。ヒーロー完成。こんな風に自決した立派な父の子だからと、宗治の息子は秀吉に家臣にならないかと誘われています。

こういう価値観、潔さを貴ぶメンタリティーを持っている日本人においては、キリシタンの生き方はそれほど美しく映らなかった可能性があります。自殺を禁じるキリスト教の教えによって、彼らはどうあっても自ら死のうとはしなかったのですから。死ぬ方が楽なくらい、ひどい拷問を受けても生きたのだから、その方が勇気がいったと思うのですが。価値観は簡単には覆らないものですよね (-ω-;)ウムー



清水宗治自刃の地

顕彰碑

ごうやぶ遺跡

備中高松城


続いて備中高松城(本当は「高松城」だけど他との混同を避けるため「備中」を付けるのが一般的)の跡へ。ここが水攻めにあって周り全部水だった所です。

だけれど今は緑豊かな公園になっていて、水没した様子を想像するのが難しい感じ。ハリウッドで映画にしたら、すごいスペクタクルな感じになるんでしょうけど。

そうもいかないから、真面目に解説板建ててくれてます。それでもねぇ。。備中高松城の水攻めのことは、知っている人も多いでしょうが、少しおさらいしますとこんな感じ↓です☆彡


備中高松城水攻めのおさらい


天正10(1582)年、全国統一を目指す織田信長は、羽柴秀吉に命じて毛利方の諸城を攻略し、備中高松城を攻めました。秀吉は高松城主 清水宗治に利をちらつかせて降伏するよう勧めましたが、義を重んじる宗治はこれに応じませんでした。

高松城は深田や沼沢の中に囲まれた平城で、水面との比高がわずか4mしかないため、人馬の進み難い要害の城でした。攻めあぐねた秀吉が軍議を重ねていると、黒田官兵衛が「水によって城が落ちないのなら、反対に水によって攻めたらよいのではないでしょうか」と。

これによって戦史にも稀な水攻めが断行されるようになったのです。周りを水に沈めて兵糧攻めにしようとした訳ですね。

3キロ及ぶ堤がわずか12日間で完成されると、時あたかも梅雨の頃だったため、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188ヘクタールの大湖水ができ城は孤立。援軍に駆け付けた毛利側の武将 小早川隆景、吉川元春らは、孤立する備中高松城の状況を前になす術もありませんでした。


本能寺の変と中国大返し


しかーし!そこへ予想だにしなかった事態が巻き起こります。城が落ちそうになっていた6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれのです。この一報がもたらされると、秀吉は茫然自失。ひどく落ち込みますが、ここで官兵衛が一言「光秀を討てば、天下が回ってきましょうぞ」――。

この言葉に鼓舞された秀吉は毛利方の軍師、安国寺恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土は取らない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件を示しました。

宗治は自分の命によって主君を安泰にし、部下の命を助けることができるのならば、自らの首など安いものだと述べ、自害を決意。宗治は城内で別れの宴を行った後、城を取り囲む水の上へと小舟に乗って漕ぎ出し、船上で舞を踊り、美しい辞世の句を詠むと、切腹しました。

秀吉は宗治の最後を見届けると、武士の鑑として称賛して手厚く葬るように言い、今度は信長の仇を討つべく、京都に向けて全軍を差し向けました。これが世に言う「中国大返し」。ここからの物語はまたいつかお話することにしましょうか♪



備中高松城解説

備中高松城解説

備中高松城解説

備中高松城解説板

蓮池


備中高松城の水攻めは黒田官兵衛の献策で、これを考え出したというだけでも、非凡さがうかがえます。

というか、敵に回したくないタイプですね。

だけど幸いにも官兵衛はキリシタン!神様の味方なので心強いです。ただしこのときはまだキリシタンになってないですね。備中高松城攻めが1577年、受洗したのは確か1585年のことなので。

この辺りが低地であることを感じられるのは、菖蒲や蓮池の様子から。花の頃はさぞかし見事なんだろうなと、長閑な気分になってしまいます。落城と宗治の切腹を歌にした「水攻音頭」はどうかなーと思うばかりですけども...(;''∀'')コレアリナノ?



菖蒲

水攻音頭

菖蒲

宗治蓮

首塚


宗治蓮を眺めながら橋を渡ると、本丸跡。そこに清水宗治の首塚があります。

首塚は明治時代に移転改葬されたものだとかで、離れた所に宗治の遺骸を埋葬した胴塚もあるそう。

群雄割拠のこの時代に生きた人たちのメンタルを、私は到底理解できないですね。人は生まれてくる時代を自分で選べないのだから、精一杯生きるしかなかったんでしょうけど。


本丸跡

石碑

首塚

攻城の様子

大きな鳥居


首塚を後にし、高松城水攻め史跡公園に向かって歩いていると、前方に巨大な鳥居が出現。写真に人を入れて大きさを比較(←)。うん、わからない。

世間は長引く不況に喘いでいるというのに、なんと新しく立派なことよ。道の上に建てられているので、下を通過する車は強制的に鳥居をくぐることになるんですけど、法的には問題ないんですかね?

鳥居の足元まで行くと解説板が。最初に造られたときには日本一だったんだとか。岡山って神道勢力強いんですね。知りませんでした。そっか吉備の国ですもんね。古代日本の文明圏の一つだったから…、ふむふむ。



大鳥居

解説板

高松城水攻め史跡公園


15分ほどで高松城水攻め史跡公園に到着。

完全に緑の牧場ですね。フリスビーでもしたくなるような(エア・フリスビーしてみました♪)。

野の花が咲き、蝶が舞っている様子があまりに素敵で、思わず皆で賛美。良いですわ。緑の美しい所に来たらやっぱり賛美ですね。



案内板

まるで緑の牧場

解説板

解説板

築堤跡複製展示


一見緑の牧場か公園ですが、やはり史跡公園なので、築堤跡複製展示や高松城跡高さ表示板で水攻めの様子を理解させようとしてくれています。

築堤跡も蛙ヶ鼻に一部残存。藪みたいに見えますが、水攻めするときに築いた堤防の東端部で国指定史跡です。

ここに黒田官兵衛はいたはずですね。何を感じていたんだろう。考えていたのは策だとしても、心で感じていたのは…?



築堤跡複製展示

高松城跡高さ表示板

築堤跡

蛙ヶ鼻解説板


 市内中心部へ戻って♪


備前県民局


もう一度桃太郎線に乗って、市の中心部へ。本行寺、朝日新聞岡山支局、備前県民局と回りました。

若い人が関心を持ってくれてうれしいですね。ここ弓ノ町牢獄跡も殉教地ですから。

岡山藩預けとなった117人のうち、15歳以上の男子29人がここにあった牢に収容されたのですが、鶴島に移されるまでに2人が死んでいます。

たった10か月の間に男性2人が死亡。その後岡山各所に預けられた者たち全員が日生諸島の鶴島に移送され、荒れ地を開墾する労働に駆り立てられました。そして明治6年に帰国するまでに、そこで13人が死亡しました。鶴島の方は殉教地だと知られ、碑も建てられているのですが、市内の方にはないですね。こうやって若い人たちが知ってくれることが、碑よりも貴いと信じます。



本行寺跡

本行寺

本行寺解説板

弓ノ町牢獄跡

聖オーガスチン教会


更に、昨日は行けなかった備前藩牢屋敷跡まで行こうと歩いていると、古い教会堂が。日本聖公会の聖オーガスチン教会です。

聖公会の古い教会って、日本人の心性に合うような気がしますね。大きくはないけど、それが落ち着きを与えてくれて、席に座ると自然に祈りに入れます。


聖オーガスチン教会

堂内

堂内


岡山聖心教会


少し歩くと岡山聖心教会が。新築です。いいなぁ。

「聖心」と付いているとカトリックかなと思ってしまいますが、日本基督教団の教会です。

この辺り、妙に教会が多いと思うんですけど? カトリック岡山教会も近いし。


岡山聖心教会

岡山聖心教会

岡山聖心教会

岡山聖心教会

瑞雲寺


昔からありそうな細い道を進むと、「小早川秀秋墓所」と刻んだ石碑が! え、こんな所に秀秋眠ってるの?

藩主にしてはえらく質素な佇まいなんですけど。秀秋の墓と木像が本堂内にあるということですが、非公開みたいですね。

ストレスフルな環境だったかもしれないけど、幼い頃からアルコールに溺れ、19歳で西軍を裏切り、21歳で肝硬変(恐らく)で死亡って、一体どんな人生だったんだろう…。


小早川秀秋の肖像画


ネットで小早川秀秋の肖像画を検索すると、困り顔の青年がヒットします。写真ではないけど、秀秋はこんな感じだったんでしょうね。線が細く、お世辞にも勇猛果敢には見えません。「どうすればいいか、誰か教えて」という声が聞こえてきそうですが、その一方で、追い詰められると自棄になりそうな感じも。

人は生まれてくる時代も選べないけれど、生まれ落ちる環境や家族も選べないから、それらが自分に合ってない場合、苦労ばかりする羽目になりますよね。今より自由度が低かった時代に、太閤の正室の甥っ子として可愛がられながらも、いつそこから転落するか分からずに不安だったのかと。

二十歳前後の青年にしてはどこか人生の疲れを背負っているような表情を浮かべる秀秋の肖像画を見ていると、自分で選んだ訳でもないのに、生まれた時代や環境が良かったなら、それをもっと感謝しなければと思います。うんうん、感謝しよっと ( ^ω^ )



解説板

瑞雲寺

瑞雲寺

瑞雲寺

備前藩牢屋敷跡


そうこうしながら地図を頼りに進み、伊勢神社の北側にある広瀬町へ。現在駐車場や民家などになっている所が、備前藩牢屋敷の跡ですね。

岡山県備前県民局の所は、1705年から備前藩牢屋敷となったので、1870年の浦上のキリシタンはそこに入れられましたが、それ以前には牢は別の場所にありました。

で、キリシタン時代に牢があったのはこちらになります。普通に人が住んでいる所だから、大きな声で「牢だった」とか言ったら嫌がられそうですけど。

ちなみに今日一緒に歩いている大学生の男の子は、ちょうど広瀬町に住んでいて、家はこの裏手に当たるそうです。昔の牢屋敷は広かったから、当時はそこも牢だったかもしれませんね。キリシタンが入れられた牢跡に今はクリスチャンが住んでいるって、それは控えめに言っても意味あることだと思います☆



備前藩牢屋敷跡

備前藩牢屋敷跡

広瀬町

伊勢神社北側

神の国キリスト教会


少し行くと神の国キリスト教会が。この辺りって、キリシタンの牢があるは、教会はあるはで、すごく濃い町ですね。

これらが自然と集まっているというのが、何と言うか…。人は目に見えないものを「見えない」と主張するんだけど、感じてはいるということの証左のような。

ここら一帯を「教会銀座」と命名したいくらいです♪


カトリック岡山教会


路面電車が走る大通りへと向かいながら、カトリック岡山教会に寄ります。自宅に「広島教区殉教地・巡礼地案内」を送ってもらったので、ちょこっと献金。

この教会の事務所の方が好意で送ってくださったこの本なしには今回の旅行はあり得ませんでしたから。すごーく役立っていますし。

お祈りもして、はー、落ち着きました!


聖堂


教会って、何か息ができる場所のように感じます。

もっと日本人が教会に通うようになっていったら、社会が良くなっていくように思うんですけどね。


聖堂内

聖堂内

ステンドグラス

ステンドグラス

ディエゴ喜斎


庭にはディエゴ喜斎像。26聖人の一人で、最年長だった人ですね。岡山の出身でした。ディエゴ喜斎を囲んで皆で記念撮影。

岡山も桃太郎ばっかりじゃなくて、喜斎をイメージキャラクターにして…「セイント☆ディエゴくん」とかダメ? ちょっと無理あるか ( ;∀;)サスガニネ

本日は午前と午後のキリシタン二毛作。一人だったり、皆とワイワイだったり、いろんな形で巡礼しました。

初対面のはずなのに、話がしやすかったのは主が心をつないでくださったからですね。無事に笑顔で一日を終えられることを感謝します♪


ディエゴ喜斎像

ディエゴ喜斎

マリア像



          人は若い異性に弱い!?


ニュースで高齢者の詐欺被害を特集していたのですが、専門家が「人は自分より若い異性に弱いんですよ!」と言っていたのが耳に残りました。女性は母性本能で、男性はモテ心で、若い異性に甘くなってしまうのだとか。そのために詐欺に遭ってしまうのは問題なんですけど…。

自分を振り返ってみると、若い異性だけでなく、老若男女問わず弱いなと思います。すぐに好きになってしまって(いや、変な意味ではなく)、何でもしてあげたいと思ってしまうフシがあります。何か役に立てることないかなと探してしまいますし。だから全方位的に弱いと言えるかもしれませんね。

だけど「誰かに弱い」「よくしてあげたくなる」という心理の根っこには、誰かに何かを残したいという心理、あるいは本能があるように思います。私は誰かに何かいいことをすることで、相手に何かを残そうとしているんじゃないかと思うのです。

人が何かを残そうとする生き物だとしたら、それに成功した人たちを称えても良さそうです。歴史上の人物しかり、信仰者たちしかり。殉教者やキリシタンの中には生物学的な子孫を残さなかった人が多くいるけれど、何かを残した人たちだと思います。だから彼らは、死にはしたけど、成功した人たちですね。

人が時や空間を超え、何かを残し、また受け取ることができるなら、私たちが見る視点ももっと引き上げるべきかと。もっと高く、遠くまで見通す瞳を持って生きていきたいものだと思います。えーっと、詐欺には気を付けますけどね (^_-)-☆






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