本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 続・韓国巡礼 part2

 続・韓国巡礼 part2


 本日の主な訪問地


 花の祝祭
 珍山聖地聖堂
 東軒跡
 珍山小学校
 大田中心部


昨日は夜遅くに大田(テジョン)に着き、今日は珍山(チンサン)へと向かいます。韓国で最初のクリスチャン殉教者を出した村ですね。珍山事件で知られています。とっても田舎のようだけど韓国キリスト教の揺籃期を感じられるといいな (⌒∇⌒)



花の祝祭


季節の女王5月ということで、花の祝祭が行われている自然公園へ。つつじと八重桜が一緒に咲いている光景にうっとりしました♪

日本のGWのとき、韓国でも休みの日があるので都会や観光地は混んでいるけれど、これくらい田舎に来るといいですねぇ。

飛行機のチケットは高いけれど、ベストシーズンはそれだけ訪れる価値があるんだなと。



芝桜


今日もカササギを見て(向こうもこっちを見てる)、幸先の良さを感じながら、韓国のキリスト教史を振り返ります。

韓国のキリスト教は1784年に李承(イ・スンフン)が北京で洗礼を受けて帰国し、權哲身(ゴン・チョルシン)、丁若(チョン・ヤギョン。茶山)ら周囲の人々に広がっていくことで始まりました。伝わったのはカトリックですね。

韓国ではカトリックを天主教(チョンジュキョ)と呼び、プロテスタントを基督教(キドッキョ)と呼んで、結構はっきり区分しています。溝があると言ってもいいくらいに。昨日のミカエル夫妻はカトリックなので、私たちがプロテスタントなのに韓国のカトリック殉教者に関心を持っていることを不思議がっていました。日本ではそんなに区別しないし、一般の人は違いも知らないから、変ではないんですけども (^_^;)


珍山事件と韓国初の殉教者


当初はエリートたちの勉強会のように始まった韓国キリスト教ですが、祭祀問題を機に少しずつ風向きが変わっていきました。

珍山村に住む2人のクリスチャン、尹持忠(ユン・ジチュン)と権尚然(クォン・サンヨン)が、神父の指導に従って先祖祭祀をやめ、神主という位牌のような物を焼却したことが、儒教思想に悖ると問題になり、珍山事件という弾圧が起こったのです。

これが1791年の辛亥(シンヘ)迫害へと発展しました。2人は事件となると一旦身を潜めましたが、2人の代わりに叔父が捕えられたと聞き、珍山の官衙(クァナ)へと出頭して牢に入れられました。そして拷問を受けても棄教しなかったために斬首されました。こんなキレイなところで殉教史を思うのもなんですが…。



花盛り

リス発見

つつじ

カササギが見てる

 珍山巡礼★


珍山聖地聖堂


珍山までは大田からタクシーで1時間弱。途中の風景の長閑なること。人は住んでいそうだけど、店があまりにもなくて、どうやって暮らしているのか気になるほど。

まずは珍山のカトリック教会へと来てみましたが、人気は少なく、教会から出てきた信者さんに話しかけてみましたが、胡散臭そうにあしらわれました。

どこにでもホスピタリティがあると思っちゃいけないんですね。本来はこのようなものだろうと、ホスピタリティを期待してしまっていたことを自省。解説板が建てられていて、これが自由に読めればかなりのことが分かりそう。そう、「自由に読めれば」!



珍山聖地聖堂

珍山聖堂

珍山聖堂

解説板

殉教者記念碑


教会敷地内には殉教者のお墓みたいな記念碑が。2人の名前がそれぞれ刻まれています。

亡くなったとき、尹持忠は33歳、権尚然は41歳でした。1791年10月半ばに捕まって、処刑されたのが12月8日ですから、問答無用って感じですね。

殉教地は全州(チョンジュ)で、明日行こうと思っています。


珍山の村


珍山事件の後、クリスチャンたちは表立って暮らせなくなり、教友村(キョウチョン)という共同体を作って信仰を守っていきました。

その一つに行きたいとドライバーさんに伝えたつもりでしたが、うまく伝わらず、この辺にも信徒はいただろーという所へ。

まあ仕方ないですね。こちらが求めているものが伝わっていない…というか、どうしてそんな所に行きたいのか理解してもらうのが難しいので。言葉の壁プラス心情理解の壁が立ちはだかっております。

それでもこの近くの、たぶん似たような様子の村に初期のクリスチャンがいて、共同体を形成しながら頑張っていた訳ですよ。そこからもうあと4人の殉教者が出るくらいに。韓国も日本に劣らず殉教者の国ですね。



村の標識



東軒(トンホン)跡


では目印があって行きやすい所に行ってみましょうということで、珍山小学校へ。

珍山小学校が昔の官衙跡。韓国初の殉教者が出頭した行政機関です。

そしてその隣にあったのが刑房(ヒョンバン。牢屋)で、現在は私有地になっている模様。敷地内に建つ住宅が東軒(トンホン)の建物だったと解説板に書かれています。えっ、今も東軒があるなんて!

1412年から珍山郡の郡庁事務室と郡主官舎(それが東軒)として使われ、1950年からは珍山公民学校になり、その後個人の手に渡って改造され現在に至る、みたいなことが書かれていますけど、本当でしょうか?そんなに古くは見えないんだけど (~_~;)

この解説板が話を盛ってなければ(それか私の韓国語理解が間違っていなければ)、ここに2人の殉教者は来ていたことになりますね。現在はユさんという人の所有になっているようですが。



東軒跡

東軒だった?

何だろう?遺物?

解説板

珍山小学校


こちらが珍山小学校。意外にも校舎は新しく、周りの田舎っぽさからすると、ここだけ際立ってモダンに見えます☆

小学校がこんな感じだということは、過疎ってないということですよね。こういう田舎には珍しく(田舎を連発して悪いですが…)。

ここに地域の中心たる行政機関があったんですね。郡庁とか、時代によって呼び名は多少変わったとしても。全然中心地という感じがしませんけど…。だって田舎なんだもん(コラ!

珍山は1896年に全羅北道に定められましたが、1963年に全羅北道から忠清南道に編入されました。だから尹持忠と権尚然は全羅北道の中心、全州に送られ、そこで処刑されたんですね。今とは行政区画が違ってたことを知らないと、どうして?と思ってしまうところです。

私も韓国の行政機関がどうなっているかについて詳しくないですけどね。特に当時のとなると、説明している本とかも探し出せなくて。しかし殉教者のこととなると、ハングルに食らいつこうとする根性が湧いてくるのだから不思議なものです。自分でも。



「私の故郷珍山」碑

珍山小学校

珍山小学校

官衙跡

大田(テジョン)中心部


ちょっぴり荒い運転のタクシーでしたが、無事に大田に戻って参りました。昨日は到着が遅かったから街の様子が分からなかったのですが、すごい都会なんですね、大田って。

2014年、尹持忠と123同志殉教者を列福するためにローマ教皇が来韓した際に、記念の大ミサを行ったのが大田でした。

そっか、時間あるならその場所に行ってみれば良かったなー。。韓国も奥が深くて、一度来たことが次につながる感じがします(^^♪





         「今日」の集まり


人生はたくさんの「今日」の集まり。「今日」の集合体です。毎日「今日」を生きているうちに、私の後ろに人生が出来上がっていくのですから。

一日分の「今日」が過ぎ去って、夜祈る時、すっきりしない気分がして、やり残したことが思い浮かぶと、明日がほしいなと思います。明日分の「今日」があれば、挽回できる気がして。

だけれどそれがいつか無くなるんですね。この世を去る時に。それはいつかは分からないけれど、実は明日かもしれない。人は「今日」しか生きられないのだと、それを忘れてはいけません。

「今日」は優しく、時に厳しく過ぎるもの。それでもその時間を愛おしみながら大切にしていくなら、大切な人生が残るのでしょうね。私の人生を大切なものにする秘訣は「今日」にあるのだと、思い至るようになった夜なのでした (o^―^o)オヤスミー





                                         NEXT >>